講談社文庫1〜4巻読破いたしました。
色々言いたい事は山ほどありまして
おそらくそのすべてを吐き出しますと
このブログを読んでいらっしゃる方も
なによりPONも「げんなり」してしまいますので
おいおい、記述していきたいと思います。
にもかかわらず・・
今日は長いよ(笑)GW中に書いたんで。
まずは、いきなりガンダムの名場面から。
ご存知の方が多数だと思いますが、
一応説明いたします。
ホワイトベース(HB)は敵の追跡を振り切り
ジャブロー本部に命からがら逃げ込む。
そこには敵の攻撃から命を賭してHBを守った
「マチルダ中尉」の婚約者「ウッディ大尉」がいた。
HBの修理責任者である「ウッディ大尉」の元へ
アムロは贖罪の意味も込めておもむく。
「僕がガンダムをもっとうまく操れれば
マチルダさんは死なずに済んだ」
というような意味のことを口にするアムロに対し
ウッディは以下のせりふを吐く。
少々長いですが引用します。
(映画版・機動戦士ガンダムU)
ウッディ
「自惚れるんじゃない、アムロ君。ガンダム1機の
働きでマチルダが助けられたり
戦争が勝てるなんていうほど
戦争は甘いもんじゃないんだぞ!
パイロットはその時の戦いに全力を尽くして
後悔するような戦い方をしなれけばそれでいいんだ!
私はマチルダが手を掛けたこのホワイトベースを愛している。
だからこの修理に全力をかけている。
人にはそれくらいのことしかできんのだよ・・・」
長々と引用したわけですが、
小説「ローレライ」では、敗戦直前の日本で
各大人たちがそれぞれの立場で
祖国をこんな風にメチャメチャにしてしまった
責任をとるべく動き出します
世界を危機的状況にしてしまった犯人には
当時の「指導者」は当然ですが
時代の雰囲気に呑まれた「一般国民」、
「絹見(まさみ)」艦長、
人体実験に明け暮れたドイツの「藪医者」なども
含まれます。いずれも
「自らに与えられた範囲だけで努力すれば
結果が成功しようとしまいと、またその影響が
どのようになろうと自分には責任が無い」
と自分の殻に閉じこもり、思考停止。
状況がまずい事は常に誰かのせいにして、
決して自分のせいだとは考えもしない、
大勢の大人たちでした。
自らを「道具」であると定義して
「考えることをやめてしまった」大人たち。
だれもが職人たろうとして、決して
経営者になろうとはしなかった訳です。
その結果、いよいよどうしようもなくなった状況を
「何とかしてくれ」と帳尻あわせを
無理矢理に押し付けられたのが
当時の「若者たち」でした。
「絹見(まさみ)」艦長を始め、
イ−507の大人たちはそれに気づくことができたため、
未来を取り返そうと動き出しますが。
そこで「ウッディ」さん。
>人にはそれくらいのことしかできんのだよ・・・
いい台詞だなあと昔は感心していたのですが、
この考え方は「人」ではなく
「パイロット」の心得なんじゃないでしょうか。
パイロット、つまり軍人であればそれでもいいでしょうが
「人」であるならばもう少し違った生き方、
考え方があると思います。
(※1)アメリカの有名な実験
来るべき時、PONはその数%でありたいと
願っています。なかなか実現できそうにありませんが。
戦後の日本人は、PONも含め、
組織の「歯車」たるよう、教育を受けてきました。
最近は教育が行き届きすぎて
トップにいたるまで「歯車」になってしまった
ようです。
「善悪はそれを用いる人の心の中にあり!」と
それが科学者がよく用いる詭弁である、と
叫んだのはうる星やつらの「さくら」さんでしたが
PONは思います。
一個人(庶民)のふとした善悪の判断は
時に「組織」の「エリート」が
知恵を寄せて導いた結論に勝るときがあると。
判断の根拠は必ずしも「理路整然」としたもので
ある必要はなく「漠としたもの」で
全然構わないと思います。
ああ、改めて書くと青臭いなあ。
判断基準が自分でいいからといって
なんでもかんでも「俺が正義」というわけにも
行かないのが難しいところですが、
そうした独りよがりの「正義」にならないためにも
個人レベルでも考え続けなければならんのです。
んで、更に更に例の「JR西日本ボーリング大会事件」ですよ。
多分、彼らは
「また事故だろ」
「俺らが起こしたわけじゃあないし」
「俺らが現場に行ったところで役に立つわけ無いし」
「俺らには俺らの日常業務をこなせばいいのだ」
「事故があろうが会社業務の一環として
ボーリングはボーリング」
・・まあ、そんなところだったのでは?
「鉄道マン」の自覚がどうのではなくて
「人」としてどうよ?
って問題なんですがね。彼らの場合は
「鉄道マン」としても「人」としても失格。
最後にこれだけは言わせてください!
どう見てもアムロはガンダム1機で
戦争を終わらせたと思います。
※1