2006年11月11日

山内一豊 その弐

人の功績を横取りする男
山内一豊について
もう一回だけ書きます。

「小山評定での掛川城献上」

関が原の戦いの少し前、
「徳川家康」は自分を嫌う
「石田三成」とその仲間たちと戦争をして
一気にケリをつけたがっていました。
しかし自分が京都にいては
「三成」も挙兵しません。

仕方なく家康は「会津」の「上杉景勝」に
無理やり因縁をつけ、京都から部下や
豊臣秀吉の旧部下達を引き連れ、
東海道を通って「会津」へ戦争しに行きました。
その留守を待って、従来より計画を練っていた
「石田三成」は家康を倒すために挙兵します。

更にこれを待っていた家康は
栃木の「小山(ゆうえんち)」で会議。
上杉と喧嘩するのは
ひとまずお休み
石田三成と戦争をすべく
京都へ戻ろうとします。

この時点での家康は、
晩年の圧倒的権力者ではなくて
会社で言えば豊臣家の専務どまり。
部下のように付いてきていた
豊臣秀吉の旧部下達も、家康の部下でなくて
あくまで同僚
だったのです。

東海道を戻るのはいいとしても
その通り道にあるたくさんの「お城」は
部下のものではなく、同僚のもの。
一人でも「家康」ではなくて
「三成=豊臣家」に味方する!となれば
安心して京都に戻ることは出来ません。

そんな時、一豊は
家康の前に進み出てこう言ったのです。

「家康殿が石田を討つために東海道を進まれるはず。
 自分の城・掛川城にはたくさんの兵糧が
 ありますので自由に使って欲しい。
 それだけでなく、掛川城と知行地一切を
 家康殿にお預けします


一見、当たり前のように聞こえますが
これは画期的なことで、家康にとっては
願ってもないことでした。
まあ、専務が社長を裏切って独立する時
同僚の専務が資金と人脈その他

提供したようなモンです。

家康はこの言葉に感動し、目を潤ませたとか。
一豊の一言で東海道に城を持つ他の武将も
俺も俺もと城の明け渡しを申し出、
家康は労せずして
東海道の諸城を手に入れました。
一豊が関が原の戦いで
戦功がなかったにもかかわらず、
土佐一国を手に入れたのは結局このため。

但し、この申し出は
最初に言い出した人間のみが有効です。
あとから真似して「自分も!」といっても
追従者として埋もれてしまうだけです。

これを、一豊が自分で考え出して
申し出たのならば、
それは機を見るに敏の政治力を持った
大した武将だと思います。

実は、この案を考えていた
別の人物がいました

小山会議を前に途方にくれていた一豊に対して
「堀尾忠氏」という若い武将が
自慢げにポロッと漏らしてしまった
腹案(城をそのまま明け渡す案)
を一豊はそのままパクったのだ

伝えられています。

誰が考えたかは問題ではなく
偉いのは実際に言いだした者
(実行者)
であるのは
世の常なのですがね〜。

奴には本当に納得いかない。

・・そんなわけで
大河ドラマ
当人の人生がごとく、
まったく見せ場を作れない
「山内一豊」なんか止めて
さっさと「北条五代」やってください。
要はそういうことです(苦笑)

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posted by PON at 21:00| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする