なんとびっくり37歳。
36歳と37歳では、なんか違うよなあ。
うん。違うよ(ごにょごにょ・・)
マスライです。
************************
戦国づいてきた当ブログですが、今回はこの方。
「平塚為広」氏。戦国フリーク以外は知らない方
の方が多いだろうなあ。
ごくごくかいつまんで簡単に申し上げますと
天下分け目の戦い、関ヶ原の戦いにて実質、西軍の
大将であった「石田三成」の挙兵に、家康に喧嘩を
売ることは死ぬことと知りつつも、友人の立場から
参戦した「大谷吉継(おおたによしつぐ)」という
武将がいました。その部下として、前線の主力として、
数十倍の小早川勢(裏切り者)を迎え撃った武将が彼。
それまで、あんまり歴史の表には出ていない
彼でしたが、どうも秀吉の馬回り衆(親衛隊)の
ひとりから出世した様子。
そんで関ヶ原の戦い。大谷吉継は、秀吉がたいそう
可愛がっていた武将で、「いつか自分の代わりに
10万の単位の軍を与えてその采配を見てみたい」
と言わしめた漢。そんな戦略眼を持つ彼ですから、
石田三成が負けるってことも、小早川の軍勢が
裏切るってくらいはほぼ予想していたようでした。
またまた簡単に申しますと、自分が大谷軍だとして
前を向いたとします。小早川勢が裏切った場合、
右側面の山から駆け降りてくるコトになる。山道なので
小早川の兵士が1万人以上いたとしても、降りてくる
ときはそれこそ数十人ずつ。しかも両軍の間には川が
あるので、降りてくる小早川軍を各個に叩いてゆけば、
勝つことはなくとも、かなり長いあいだ戦えるはずで
ありました。
(だいたいの布陣図)拾いもの
小早川がやっぱり裏切ったことが明らかになったとき
大谷吉継はあわてず、平塚為広と戸田重政の軍勢を
小早川が降りてくる山道入り口にシフト。
迎撃させたのでした。本来の敵である正面の東軍には
大谷軍が対応し、いざとなれば、ちょっと離れた
ところに味方である
「脇坂安治」「朽木元綱」「小川祐忠」「赤座直保」
の各軍がいます。それぞれ数百〜一千人程度の軍勢
ですが、まあ一応これまでは味方として動いていたので・・
そう思っていたら、これも甘かった。
東軍と激闘していた、大谷軍の横側および
山にふたをして小早川を迎撃していた平塚為広と
戸田重政の軍勢の後ろに、この四軍・・「脇坂安治」
「朽木元綱」「小川祐忠」「赤座直保」まで裏切って
襲いかかってきたのです。
正面と喧嘩している時に、後ろから刺されたら・・
これではもう戦るはずもなく。いよいよ壊滅状態が
近づいたとき、平塚為広は、乱戦の中で挙げた
敵の首とともに、伝言を託し、本部の大谷吉継のところへ
届けさせました。
「そろそろ討ち死に。先に逝ってます。
大谷様も敵に首を獲られないよう、気をつけて。」
さらに一首までつけて。
「名のために 捨つる命は惜しからじ
ついにとまらぬ 浮世と思へば」
なんのひねりもない超剛速球ですが
それだけにこの句がなんか好きでしてね。
当時、さすがに鉛筆はなかったでしょうが
クマさんのような戦国武将が、鉛筆なめなめ、
もうずいぶん前から「討ち死」を覚悟していて
この句を披露する時期を待っていたような。
それに対して大谷吉継はこう返します。
「契りあらば 六つの巷にしばし待て
おくれ先だつ事はありとも」
六つの巷とは、冥途へ通じる道の交差点です。
軍事ロマンチシズムと言われてしまっては
それまでですけど。PONだって別に討ち死など
したくありませんが、男として、安心して自分の背中を
預けることのできる存在を持ちたいものお。
もっとも、彼らも生と死のギリギリのところで
たまたまそれを見つけたのかもしれませんが。
画像は拾いもの(信長の野望@KOEIより)
そう言えば、平塚為広と一緒に戦った、もう一人の武将
戸田重政については、ほとんど知らないなあ。
今度調べてみよう。ごめんなさい。戸田重政サン。
************************
管理人モチーベーション維持のため
クリックしていただけますと助かります!
↓ ↓ ↓
続きを読む