2011年07月07日

「艦長たちの太平洋戦争」佐藤和正

艦長たちの太平洋戦争
―34人の艦長が語った勇者の条件 (光人社NF文庫)
佐藤 和正 (著)

戦死したからといって無能でもなく
有能だから生き残ったというわけでもない。
すべては結果。

ただ生き残っただけの人もいれば
(無事是名馬ともいうので、それはそれで
 スバらしいこと)
獅子奮迅の功績を挙げた方もいる。

昭和55年〜57年頃にかけて
まだ存命中だった旧帝国海軍の艦長達に
著者が直接インタビューをこころみた作品。
まさにその現場にいた人だけが語ることのできる
「戦場」というものを、非常に丁寧に理路整然と
ドキュメント化されており、読み応えがある。

・・が、語るにあたり、生き残りの艦長達が
スマートをモットーとする、元海軍エリート
であり爺様になってもカクシャクとしていたから
ということばかりでもあるまい。
取材時年齢で78〜85歳の方々。
正直、モゴモゴ言ってるだけで、ようワカラン人も
いれば、理想と記憶がゴッチャになっている人の
果てることの無い自慢話。
いずれも悪気は無いんだろうけれど
ウンザリする老人の繰言にぶつかる、なんてことも
ままあったんだろうなあ、と想像する。

そんな証言を辛抱強く聞き続け、エッセンスだけを
抽出して文にする作業ってのは、よほど海と艦が
好きな人でなけばできるもんじゃない。

あらすぢというより内容
内容(「BOOK」データベースより)
最前線において危難に際会しながらも持てる
最大の能力を一瞬に発揮して、勝利と栄光をかちえた
“海の男たち”を描いた人間物語。
戦史の空白を埋め、また覆して、歴史の一ページに
新たな波紋を起こす衝撃のノンフィクション。
幾たびも死地から抜け出し、生き残るべくして
生き残った34人の艦長たちの肉声を伝える
太平洋戦争の貴重な証言。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
佐藤 和正
昭和7年、北海道に生まれる。満州国新京特別市
(現在の長春市)で終戦を迎える。日本大学芸術学部を
卒業、河出書房入社。昭和37年より文筆活動に入り、
ノンフィクションを中心に執筆。平成3年10月歿

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こういう書き方をして果たして適切なのかどうかは
この際おいて置いて、非常に面白かった。

航空母艦「瑞鶴」艦長の証言(野元少将)

甲板から艦橋最上部の防空指揮所にいる艦長(自分)を
悲壮な面持ちで仰ぎ見、長いこと敬礼をしている
攻撃隊長に対して
「はやく発進して欲しいなあ、挨拶はあとから
 ゆっくりでいいのに・・」なんて思ったらしい。
なんと身もフタもないw
艦長が冷たいとかではなくって、センチメンタルな
気持ちを差し挟む余地も無いくらい
艦長職は激務なんだろうとしておく。

航空戦艦「伊勢」艦長の証言(中瀬少将)

中瀬中将は、エンガノ岬沖(フィリピン)海戦で
すべての攻撃を回避して伊勢を無事帰還させた。

敵機が急降下爆撃する際、3千メートル上空から
ジェットコースターのように急降下ルートに入る。
そうなると飛行機のコースは変更が効かなくなるので、
タイミングを見計らって舵を切れば、そうそう
あたるモンではないらしい。

しかも爆弾攻撃をすべて「取り舵」で回避。
「取り舵」を取り続けた理由は特になく
「トーリカージ」だと言いやすかったから。

後に、攻撃してきた米海軍の猛将バルゼーが
「老練なる艦長の回避運動により
 ついに一発の命中弾を得ず」と悔しがったらしいが
この中瀬艦長。それまでは陸の人事部担当の
エリートで、直前にいきなり艦長に任じられたという
実戦は初の新人艦長!だったのである。

先輩にノウハウを教えてもらい
忠実に実行しただけだと謙遜する。

Ise1944.jpg
両艦とも生き残ったわけだから伊達ではないな。
しかし、相手が戦艦部隊だったら轟沈してたろう・・。

航空戦艦「日向」艦長の証言(野村少将)

ちなみに姉妹艦「日向」の方は「面舵」のみで
逃げ切った(魚雷が来たときは話が別)

潜水艦の話

真珠湾攻撃では、真珠湾から逃げ出した敵艦を沈めるべく
事前に潜水艦をハワイ周囲にばら撒いて待機させたんだが
結局、米空母には逃げらたままだし、いいトコまるでなし。
潜水艦群はそのまま帰港している。

マンガ、沈黙の艦隊を読んだ方ならご存知だが
海中には、深度によって温度差があり
潜水艦がソナー(探知音の変化で敵を見つける装置)で
敵艦を探査しているつもりであっても
音波がその温度差の壁によってあらぬ方向に行ったり
吸収されてしまったりと、海中の壁の存在を
知らないと、敵艦なんて探せっこないのだ。

事前演習では、何時から何時頃、このあたりの海域に、と
だいたいは敵の出現をヨソウできるけども
相手はだだっ広い太平洋。
いつも潜望鏡をあげてずっと見ているわけにもいかず
かといって浮上はできないから、沈んだまま。
んで、頼りのソナーも敵を見つけられない。
帝国海軍の潜水艦が沈んでいる上を
けっこう頻繁に敵艦は通過していたのである。

これは潜水艦部隊が怠慢だったとかいうよりも
当時の日本海軍は、潜水艦を造って動かすことはできても
太平洋戦争をはじめるまで、今でこそ常識の
戦争ノウハウを持っていなかった!のだ。

敵機からの爆弾回避術も
潜水艦の戦法も
実戦の中から艦長たちが習得したに過ぎず
戦前には研究も演習もなかったらしい。

もっている兵器は一見立派だが
ビックリするほどアナログで
手探りな戦争だったということ(これは日米問わず)

駆逐艦「秋月」艦長の証言(秋元大佐)

この艦長は、駆逐艦「霰」(あられ)
(霰(あられ)だの霞(かすみ)だの、個人的には
 なんか自分の船がそういう名前なのは嫌だなあ)
にも乗っていた。両方とも沈められてしまった。
霰のときは、船と共に沈んだが偶然命を拾った。

二度目のとき(秋月)
「私はね、船と運命を共にしようと
 艦橋に残ってましたよ。一応ね。儀式ですからね
 ・・けれど航海長も残るという、このままでは
 彼らも死なせてしまうことになる、で脱出
 したわけです。」
秋元大佐・・正直すぎ。好きですが。

駆逐艦「有明」艦長の証言(吉田大佐)

トイレのとき以外は、大抵、艦橋にいたという。
部下というものは上司がいないときには
やはりどこかで油断(無意識の手抜き)をするから
という吉田艦長の信念に基づく。
飛行機75機VS有明一隻とか
すんげーバトルも生き延びたが、そんな有明も
次の艦長になってから
あっさりと沈んでしまったらしい。

この他にも、状況のヤバさに応じて
いくさ準備(やることが複数ある)→総員配置
→戦闘用意→戦闘、と段階を踏むのが海軍の規則であったが
そんなんでは敵襲時に間に合わないと判断。
規則を無視して常に戦闘準備、即応体制をとらせ
生き残った艦長。



潜水艦「伊四十一」艦長の証言(板倉少佐)

「長官を殴った一少尉が潜水艦長として
 戻ってまいりました・・ウヰスキー角瓶の話」
いい話なんですこれが。
 軍記モノの小説で使えるねたです。

・・もう一度読みなおすことにします。

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海軍大学を卒業した正式な軍人さんが
posted by PON at 21:00| 神奈川 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(歴史) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする