―最果ての要衝・占守島攻防記
(新潮文庫) 大野 芳 (著)
<あらすぢっつーか内容>
昭和20年8月14日・ポツダム宣言受諾、
翌15日 正午・終戦の詔勅―。
だが、戦争は終ってはいなかった。
17日深夜、最北の日本領であった
千島列島の占守島へ、
対岸のカムチャツカ半島から、突如として
ソ連軍の大部隊が来襲。悲壮な決意を
胸に迎え撃つ日本軍、突撃する戦車連隊、
上空からは敵弾が驟雨のように降り注ぐ。
終戦後に侵攻してきたソ連軍を相手に
日本軍の三日間にわたる死闘が始まった。
ソ連の北海道占領は、いかにして阻まれたのか。
知られざる戦争の全貌を浮き彫りにした
畢生の歴史ノンフィクション。
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陸上自衛隊には
「士魂(しこん)」
という文字が砲塔に書かれた戦車がある。
この「士魂」というのは、残念ながら
一般的にはあまり有名で無いが、
軍隊の本来あるべき姿を
身をもって体現した栄えある部隊名なのだ。
http://www.mod.go.jp/gsdf/nae/11d/organization/sensha.html
陸上自衛隊第11旅団HPより
「士魂」の由来. 旧陸軍戦車第11連隊は、第11の
11(漢数字の十一)を武士の「士」( さむらい)と読み
以後、士魂部隊と愛称しました。 この戦車第11連隊は
昭和15年3月満州で創隊され、昭和19年2月、
本土防衛作戦のため、北千島に転進、主力を占守島へ。
8月18日、突如ソ連軍が不法侵攻を開始し、これを
受けて立った戦車第11連隊は池田連隊長以下、
指揮官、幕僚の過半数を失うに至るも、よく敵を
水際に圧倒して、ソ連軍の野望を粉砕しました。
日本国がポツダム宣言を受諾。
戦争は終わったんだ・・ということが
既定の事実として、ようやく認識されたきた矢先。
東京だって大混乱中。
地方の守備隊がどうしたらいいか、
なんて全然指示があるはずもない。
更には一部の真面目な隊長などは、
早々に武装解除を始めていたり・・
折り悪く、前任者の占守島守備隊長は
占守島の備蓄物資(食料など)を
横流しするため持ち帰っていた矢先。
(当時の現場の悪しき慣例として、退職金代わりに
転勤と引き換えにある程度の物資を
持ち逃げすることが出来たらしい)
世間一般には、ポツダム宣言受諾の八月十五日が
終戦記念日とされているけど、
そんなタイミングの十八日、
カムチャッカ半島からソ連軍が攻めてきた。
あれ?戦争は終結したんじゃないのか?
まさに火事場泥棒。
ソ連にしてみれば、第二次世界大戦は
終わっちゃうかもしれないが、
この後、アメリカとの冷戦が待っている。
自国(ソ連)海軍が太平洋に出られるように
少なくとも千島列島は抑えておきたい・・
そんなスターリンの勝手な思惑から
終戦したのに無理矢理、戦争がおっぱじまったのだった。
もともと小島の守備隊であり、戦力差は歴然。
それでも日本軍が戦ったのは、
ここでソ連の侵攻を食い止め、
千島列島の住人達が、本土に避難するまでの
時間を稼ぐためだった。
守備隊の死闘で、世界(主にアメリカ)が
ソ連のムチャクチャに気づいて騒ぎ始め
結局は、ソ連は北海道侵攻を断念。
避難民たちも逃げる時間を稼げた。
唯一の本土決戦といわれる沖縄戦も悲劇だと思う。
思うが、戦後の教育現場では、
なぜか沖縄戦の悲劇ばかりが取り上げられ
北で、ソ連が起こしてきた事
(満州や北方四島の戦い)について
あまり触れられず、現在に至る。
いわゆる反戦・平和主義者(要はプロ市民)の
そもそもの出発点が「共産主義」にあるからじゃないの?
など、PONなんか勘ぐりたくなる。
戦争なんだから、ズルイ卑怯などない、と
思いがちだが、それでもある程度のルールは
存在するものなのだ。
ソ連軍隊は貧農出身者も多く、
お世辞にも素行のよい兵士ばかりではなかった。
占守島侵略ソ連軍は
日本守備隊の基地で干していた、
兵士のフンドシまで強奪したらしい。
(フェチwじゃなくって衣類が貴重だった)
フンドシなんか笑い話で済むけど
ソ連軍は、一方で焦土と化したベルリンでも略奪集団と化し
また満州でもそうだったように、ドイツ人女性が
ソ連兵のレイプの標的になったとも聞く。
「士魂」の軍隊は、貧弱な装備で多大な損害を出しつつ
侵略軍の本土侵攻を阻止したのだった。
(かのルーピーは、北海道が拠点の癖に
そんなことも知らないんじゃなだろうか?
ひょっとしたら)
これはその貴重で良質なドキュメンタリー。
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