NHKBSプレミアムでやってたんで思わず見入る。
「ドーハは悲劇ではなかった」
<ないよう>
ドーハは悲劇ではなかった
〜日本サッカー18年の真実〜
1993年10月28日、「ドーハの悲劇」が
起こった瞬間、ハンス・オフトは
カタールの灼熱のスタジアムにいた。
島田雅彦は自宅で、歓喜のシャンパンを
開ける瞬間を今か今かと待っていた。
遠藤保仁は中学二年生、鹿児島でテレビを
観ながら「そこまで悔しいものかな」と
漠然と思った。国分禎雄はテレビマンユニオン
の新人で、駒場東大前の下宿の壁に思いきり
頭をぶつけた。岸枢宇己は19歳。戸塚の実家で
家族皆がなぜか立ったまま観戦していて、
その時、全員同時に膝から崩れ落ちたという
あなたは「あの瞬間」を覚えていますか?
あれから18年、「ドーハの悲劇」は
なぜ起き、そして今の日本サッカーに
何を残したのか。
ハンス・オフト/川淵三郎/佐々木則夫
/柱谷哲二/三浦知良/遠藤保仁 ほか
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サッカーは興味ないPONです。
あんまり知ったかで書いちゃうと
ファンの方からおもいっきり
ツッコまれる可能性を恐れてまして、
書いときますね。
気に入らない点はどうか
お目こぼしくださいますようお願いいたします。
さて、この「ドーハは悲劇ではなかった」
大変面白かった。
面白かったことは覚えているのですが
詳細は忘れてしまいましたので
再放送なりNHKアーカイブなり
(レンタルビデオもあるか)
ご覧になってみてくださいな。
そして、これは先日、電車で拾った
ビックコミックのコラムかな。
ラモスがスポーツライターの
二宮氏相手に語っていたのですが、
これがまた面白かったです。
以下におぼろげな記憶から列記しときます。
忘備録として。
・ドーハ戦。後半でイラクが
猛烈に攻撃力をアップさせたのは
むこうの監督の更に上の偉いヒト
(おそらくフセインの息子では?)が
出てきて「お前ら、負けたら全員徴兵な!」
とゲキを飛ばしたというか
脅したためらしい。
・主審は明らかにニッポンびいきだった
(猛烈なイラク嫌いだったらしい)
ラモスが言うに
有名なゴン中山が決めた
ラインぎりぎりからのゴールも
「オフサイドは絶対取られないから
ゴン思い切って行け!」と
あらかじめ言い含んでおいたためらしい。
・主審のそんな影のひいきがあったとしても
ヒョンなことでロスタイムが
1分ほど発生、これがニッポンには
誤算となった。
・計算外に長いロスタイムに
これまたまったく計算していない某武田が
ぽーんと考えなしに返したボールを
イラクがカット、悲劇につなげてしまった。
(ホントにそんな風にラモスが言ってた)
・有名なラモスがフィールドに
膝をつけている写真だけど、アレは
ホントに全身の力が抜けてしまったらしい。
サッカーはまるでド素人の自分にも
なにやってんだ!某フォワードとか当時思った。
あれから二十年以上も経ち、今だから話せる
関係者の話ってやつが、だんだんと
聞こえて来るようになった。
さまざまな思惑や事情があったにしても・・
某フォワードのプレーについては
誰もフォローする人が皆無だったことに(笑)
そうか、やっぱ皆そう思ってたのか。
ただ、あの時”悲劇”が起こらず
ニッポンがWC本選に出られていたとしても、
あの辺りが当時の日本サッカーの
限界だったんじゃないかなぁと、
今でも自分なんかは思います。
ちなみに、あの時のPONですけど
ジブンより、はるかにスポーツ全般が
大好きだった友人に誘われ下宿で観戦。
終わるや否や、近くのコンビニへ買い物に
出かけたような気がします。
住宅街のあちこちの窓からは
まだまだ「あーッもう」と言ったわめきや
ため息、ただの大声なんかが
聞こえてきまして、なんか初めて
おなじ日本人としての”連帯感”のような
モノを感じましたけど。
そして四年後。念願のWC仏大会初出場。
そーだ、結果的にノーゴールだった
某ストライカーに、空港で液体をかけた
どこかの馬鹿野郎がいましたね。
ああいう基地外はほんと許せない。
あの基地外、いま何してんだろな。
ちょっと気になりました。
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