観るのに体力が要ります。
要、体調管理。
この手の映画はみなそうだけどね。
<あらすぢ>
1944年10月、ハンガリー系ユダヤ人のサウル
(ルーリグ・ゲーザ)は、アウシュビッツ=
ビルケナウ収容所でナチスから特殊部隊
“ゾンダーコマンド”に選抜され、次々と到着する
同胞たちの死体処理の仕事に就いていた。
ある日、ガス室で息子らしき少年を発見した
彼は、直後に殺されてしまったその少年の弔いを
しようとするが……。
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全面にBGMがない。
音楽で無理に盛り上げるつもりがないらしい。
それにカメラ視点が家庭用カメラ一台だけ。
(かいじゅー映画「クローバーフィールド」
でのアレです)
特殊部隊“ゾンダーコマンド”とかいうが
要は、いくらヒトラーに忠誠を誓っていても
ドイツ兵もやりたくないようなヨゴレ作業を、
代わってやらせているだけ。
サウルたちゾンダーコマンドは
いつかは自分たちもお役御免の時が来て
自分たちがやってきたコトと
同じ手順で処理されることを
解かり過ぎる位に解かっている。
それでもヨゴレ作業に手を貸しているのは
そもそも逆らったら命が無いし
それにドイツ兵に気に入られれば
多少は余禄、つまりおこぼれに預かれる。
更に手伝っているうちは
殺される時期が少しでも先に延びる。
心を殺してヨゴレ仕事を続けている
ひとりだった、ハンガリー系ユダヤ人
のサウル。死んだような彼の心が
”あること”をキッカケに急に動き出す。
サウル視点でしか話が進まないから
彼に聞こえないことは聞こえないし
彼が見ている世界も彼が気にしなかった
部分はピンボケなのだ。
サウルがほんの少しの好奇心というか
外部に目を向ける気力があれば
良かれ悪しかれ、サウルに
なにか変化をもたらす刺激が
視野外に起きているかも知れないのに
彼は頑ななまでに
自分のほんのちょっと目の前
のことしか見ようとしない。
あー見えない。見えない。
あー聞こえない。聞こえない。
なんかこう書いていると
われら日々の仕事に追われてる
ニッポン人とサウルがさほど
変わらない存在に思えてくるけれど。
彼は、心を殺し、自分に関係ないことは
全て見ないようにしているよう。
絶望と目を背けたくなる光景の中では
そうでもしないと
心が崩壊してしまうからなのかもしれないが
サウルが数々の出来事をどう解釈して
どう判断したのか、判然としない。
そんなサウルが地獄で見出した
「息子を埋葬する」って目的も手段も
観劇するPONとしては戸惑うばかりで
心から応援できない。
おいおい、ちょっと待ちなさいよ、と。
なのに彼は突き進む。
そもそも本当に息子だったのかどうか。
彼の突き進む先に、救いは在ったのか。
サウルの息子
Saul fia
監督:メシュ・ラースロー
脚本:ネメシュ・ラースロー
クララ・ロワイエ
製作:シポシュ・ガーボル
ライナ・ガーボル
出演者:ルーリグ・ゲーザ
音楽:メリシュ・ラースロー
撮影:エルデーイ・マーチャーシュ
編集:マチュー・タポニエ
製作会社:ラオコーン・フィルムグループ
ハンガリー国立映画基金
配給:モジネット
ファインフィルムズ
公開:2015年5月15日 (カンヌ国際映画祭)
上映時間:107分
製作国:ハンガリー
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この映画はハンガリーの作品。
アウシュビッツの悲惨な出来事は
実際にあった事として
人類の共通認識、歴史上の話である。
観ていたときにふと思ったんだけど
自国が起こしたネガティブな出来事を
もとに、常にどこかで映画を
造られ続けている事を一般的なドイツ人は
どういう思いで見ているんだろう。
中国が南京虐殺を過大に盛って
映画化したり、某半島国家
(南北どっちでもいいけど)が
彼らのいうニッポン軍の
悪逆な行為とやらを、タダひたすら
映画やドラマを作り続ける構図。
歴史上の愚行、悲劇を題材に
人間とはなんだろう?とか語るのが
多くの場合の製作側の意図なんだろうが
単純にネガティブキャンペーンの
プロパガンダ映画もあるし。
(特亜の映画なんかほぼソレ)
多くの観劇者は歴史学者じゃないから
正誤の判定をするわけじゃなく、
いつか一回だけみた映画の記憶が
そのまま事実認識され、
その国のイメージになっていっちゃう。