2008年07月27日

平塚為広

本日は、PONの誕生日であります。
なんとびっくり37歳。
36歳と37歳では、なんか違うよなあ。
うん。違うよ(ごにょごにょ・・)

マスライです。

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戦国づいてきた当ブログですが、今回はこの方。
平塚為広」氏。戦国フリーク以外は知らない方
の方が多いだろうなあ。

ごくごくかいつまんで簡単に申し上げますと
天下分け目の戦い、関ヶ原の戦いにて実質、西軍の
大将であった「石田三成」の挙兵に、家康に喧嘩を
売ることは死ぬことと知りつつも、友人の立場から
参戦した「大谷吉継(おおたによしつぐ)」という
武将がいました。その部下として、前線の主力として、
数十倍の小早川勢(裏切り者)を迎え撃った武将が彼。

それまで、あんまり歴史の表には出ていない
彼でしたが、どうも秀吉の馬回り衆(親衛隊)の
ひとりから出世した様子。

そんで関ヶ原の戦い。大谷吉継は、秀吉がたいそう
可愛がっていた武将で、「いつか自分の代わりに
10万の単位の軍を与えてその采配を見てみたい」
と言わしめた漢。そんな戦略眼を持つ彼ですから、
石田三成が負けるってことも、小早川の軍勢が
裏切るってくらいはほぼ予想していたようでした。

またまた簡単に申しますと、自分が大谷軍だとして
前を向いたとします。小早川勢が裏切った場合、
右側面の山から駆け降りてくるコトになる。山道なので
小早川の兵士が1万人以上いたとしても、降りてくる
ときはそれこそ数十人ずつ。しかも両軍の間には川が
あるので、降りてくる小早川軍を各個に叩いてゆけば、
勝つことはなくとも、かなり長いあいだ戦えるはずで
ありました。

fujin.jpg
(だいたいの布陣図)拾いもの

小早川がやっぱり裏切ったことが明らかになったとき
大谷吉継はあわてず、平塚為広と戸田重政の軍勢を
小早川が降りてくる山道入り口にシフト。
迎撃させたのでした。本来の敵である正面の東軍には
大谷軍が対応し、いざとなれば、ちょっと離れた
ところに味方である
「脇坂安治」「朽木元綱」「小川祐忠」「赤座直保」
の各軍がいます。それぞれ数百〜一千人程度の軍勢
ですが、まあ一応これまでは味方として動いていたので・・

そう思っていたら、これも甘かった。
東軍と激闘していた、大谷軍の横側および
山にふたをして小早川を迎撃していた平塚為広と
戸田重政の軍勢の後ろに、この四軍・・「脇坂安治」
「朽木元綱」「小川祐忠」「赤座直保」まで裏切って
襲いかかってきたのです。

正面と喧嘩している時に、後ろから刺されたら・・
これではもう戦るはずもなく。いよいよ壊滅状態が
近づいたとき、平塚為広は、乱戦の中で挙げた
敵の首とともに、伝言を託し、本部の大谷吉継のところへ
届けさせました。
「そろそろ討ち死に。先に逝ってます。
 大谷様も敵に首を獲られないよう、気をつけて。」
さらに一首までつけて。

「名のために 捨つる命は惜しからじ
 ついにとまらぬ 浮世と思へば」


なんのひねりもない超剛速球ですが
それだけにこの句がなんか好きでしてね。
当時、さすがに鉛筆はなかったでしょうが
クマさんのような戦国武将が、鉛筆なめなめ、
もうずいぶん前から「討ち死」を覚悟していて
この句を披露する時期を待っていたような。

それに対して大谷吉継はこう返します。

「契りあらば 六つの巷にしばし待て
 おくれ先だつ事はありとも」

六つの巷とは、冥途へ通じる道の交差点です。

軍事ロマンチシズムと言われてしまっては
それまでですけど。PONだって別に討ち死など
したくありませんが、男として、安心して自分の背中を
預けることのできる存在を持ちたいものお。
もっとも、彼らも生と死のギリギリのところで
たまたまそれを見つけたのかもしれませんが。

ひらつか.png
画像は拾いもの(信長の野望@KOEIより)

そう言えば、平塚為広と一緒に戦った、もう一人の武将
戸田重政については、ほとんど知らないなあ。
今度調べてみよう。ごめんなさい。戸田重政サン。

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2008年07月26日

戦国の子育て〜それはどうかな?

戦国時代の子育て話。豊臣秀吉の出世にあたり
名軍師と言われた武将が二人いました。
秀吉の前半生を支えたのが「竹中半兵衛」
後半生を支えたとされるのが「黒田官兵衛」

そのなかの「竹中半兵衛」の話。少々浮世離れした
イメージがありそうな彼もやはり人の子。
自分の子の教育には大変「力」を入れていたようで。
彼の息子「竹中重門(しげかど)」も結構キビシイ
教育を受けたようです。

幼き頃の重門君は、ある日、お父様とマンツーマンで
「孫子」の講義を受けていました。急におしっこに
行きたくなって厠(トイレ)に駆け込んだそうな。
戻ってくると、親父がコワイ顔をしている。
「なぜ、お前は厠などに行ったのだ!
 竹中家の長男が、受講中にションベンを漏らした
 としたら、それは「恥」ではなく「名誉」なのだぞ」

・・・竹中さん、それはどうだろう(笑)
そんな教育を受けた重門君でしたが
関ヶ原をはじめとしてあんまり冴えない
武将人生でした。残念です。

もっとスゴイ教育を受けた武将がいます。

九州が生んだ名将「立花宗茂」です。
東の「本多忠勝」、西の「立花宗茂」と
豊臣秀吉に認められた武将。
(もっとも、国家的規模で何かを成し遂げた、もしくは
 成し遂げようとする気骨をもった漢(おとこ)を
 名将と呼ぶなら、秀吉にとってこの二人は単なる
 戦闘屋であって、決してライバルにはなり得ず
 だからこそ安心して持ち上げたのかもしれません。
 彼らを持ちあげることで、秀吉自身も更に上級扱い
 されるわけですし)

まあいいや。この「立花宗茂」は生まれからして
スゴイ。一時期、九州を席巻した大名、大友宗麟の双璧
闘将「高橋紹運」の実子であり、さらに名将「立花道雪」
の養子になった漢です。
なんだろう・・ロイエンタールの実子にして
ミッターマイヤーの養子?いやいや
ウルトラマンの倅にして、仮面ライダーに改造された男
(逆に弱くなってしまったかもw)
PONの錯乱が解っていただけるだろうか。

つまり、名将に成るべくして生まれてきた男なのである。

実父の「高橋紹運」は、大内家が傾きかけていた頃
南から怒涛のごとく数万単位で攻め込んできた島津家に
三百人ほどの軍勢で城に立て籠もり、大友家反撃までの
時間を稼いだ男。三百人という数字もどうせ自分は死ぬから
少しでも本家に兵がいた方がいいと判断した結果らしい。
壮絶な戦死を遂げたそうな。

養父となった「立花道雪」は、自らが若かりし頃
雷神と喧嘩(要するに「雷」にむかって剣を振り上げて
突撃して行った)男ッス。その後・・片足が不自由に
なったそうですが、それくらい熱いオトコに育てられた
んですからハンパではありません。
ウルトラマンレオに対するセブンのシゴキどころじゃない。

あるとき、「立花道雪」氏監督のもと、野山を裸足で
駆け回っていた、幼少時の「立花宗茂」くん。
イガグリを踏んづけてしまった!これは痛い。
「お父さん〜!痛いよ〜」と
父のとこへ向かってみれば、養父の「立花道雪」さん。
「イガグリがナンボのもんじゃい!」
(と言ったかどうかは知らんケド)
トゲが刺さる息子の足を更に踏みつけたそうな。
俺なら速攻で謀反か出奔するね。

平和になった時代に「立花宗茂」は、部下にしみじみと
語ったそうである。
「あのときが一番辛かった・・」と。
ほとんどの人には地獄だったハズの
戦国時代を生き抜いた彼が、そんなこと言うんだから
さぞ辛かったんだろうな。

そんな彼も関ヶ原では「ヒジョー」に残念でありましたが。

長くなったんで、後ちょっとだけ続けます。

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2008年04月28日

秀吉の松茸

戦国時代には、面白いエピソードが
いっぱいある。
現代サラリーマンの処世上には
まったく参考にならんけど
おもわずニヤけてしまう話も。

特に日本史上最強の成り上がりぶりを
見せた秀吉が権力を謳歌していたころは際立つ。

ひとつには、どこまで偉くなっても
結局は彼をバカにしたい元部下や元同僚などの
やっかみが、「今でこそ太閤だけど奴は
むかし、あーだったんだよ?」
「そういえばあんなことがあったよ」と
書き残した結果なのかもしれないし。

秀吉の方も、少々のことでイチイチ
周囲の首をはねていたら、
「やっぱり成り上がり者は・・」
と言われてしまうからか、
度量の大きさを見せつける必要があったから
なのかも知れない。

基本的に人臣位を極めた彼に
歯向かう命知らずはいなかったはずだが
秀吉も、相手がスジさえ通せば
それほどムチャクチャはしなかったようだ。
(無論、甥っ子一族の大虐殺のように
 基本はやっぱ権力狂でありましたが)

そんな自分に、少しでも抵抗してくるやつ
一本取ろうとしてくるやつ等がタマに居ると
わざわざつき合っていたフシがある。

もし秀吉が信長みたいな絶対君主志望だったら、
国民全員イエスマンしかあり得ないからね。
誰一人、自分に逆らうものがいないというのも
やはり寂しいもんなんだろう。
(時には命まで賭ける)周囲との
やり取りを結構面白がっていたのかもしれない。

今回の話は、それほど大したことないんだけど
秀吉のためいきが伝わるようで
PONが好きなエピソードです。

秀吉のある部下が「松茸」を献上してきた。
「我が家の裏山で採れた「松茸」です。
 さすが、太閤様が下された土地、
 毎年、毎年、食べきれぬほど「松茸」が
 生えてまいります。これも太閤様の御威光」

「そうかそうか、その気持ちが嬉しい」

と秀吉は機嫌よく受け取った。
自分が太閤である以上、部下から
ただ貰って終わりにするわけにもいかない。
貰った松茸の、価値で言うなら十倍以上の
「財宝」やら「反物」やら「武具」やらを
その都度くれてやったらしい。

嬉しくなちゃったその部下は
毎年、毎年、「まつたけ」を送ってくる。

周囲の官僚のひとりが言ったことがある。
「はて?かの者に与えた山には
 アカマツなんて一本も無い
 梅山だったような・・」

秀吉はそんなこと知っているうえで
気持ちが嬉しいからと、毎年、
彼の松茸を受け取っていたようだが
ある年、秀吉はさすがに彼に言ったらしい。

「もうよい。その方の気持は解った。
 裏山に松茸生えすぎなりw」

「さんまは目黒に限る」じゃないけど。
なんかスキ。

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2007年04月15日

臨兵闘者皆陣烈在前

九字印

護身、精神統一の呪文。
九字の印は元々は道教が発祥
仏教がそれを取り入れて行ったもの。
「臨兵闘者皆陣裂在前」が正しい。

道教では「臨兵闘者皆陣裂在斬」が
仏教では「臨兵闘者皆陣裂在前」と
変えて伝わる。

陰陽道・神道・修験道・忍術などで
一般的に使用されるのは「臨兵闘者皆陣裂在前
臨める兵、闘う者、皆 陣裂きて、前に在り

但し、真言宗と天台宗は次のように言われる。
真言宗は
『臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前』
(臨める兵、闘う者、皆 陣烈れて、前に在り)
天台宗は
『臨、兵、闘、者、皆、陣、列、前、行』
(臨める兵、闘う者、皆陣列ねて、前を行く)

それぞれの教義の違いでこの様に
九字の唱え方が違う。

なるほどね〜。
 ↓  ↓
真言密教雑学

忍者の小説を読んでいたら
(後、「孔雀王」荻野真原作漫画の映画から)
出てきたんでつい調べてみました。
「ベギラマ」とか「ホイミ」見たいなモンかな。
唱えたご利益が知りたい。
精神統一に使うとか聞いたことあるけども。

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2007年03月21日

お国言葉

ラジオに続いてテレビの普及、
新幹線、飛行機等の
移動手段の獲得により
地域の独自性はかなり薄れてきました。
もっとも顕著なのは「方言」。

とはいっても今でもビミョウな
イントネーションの違いは残っていますし
「河内弁」のように
お笑い大阪勢のおかげで
時に場を盛り上げる作用や
「おやくざ」さんのおかげで
緊迫感をも盛り上げる作用まであったり。

明治維新を迎えるまで、
江戸幕府は搾取対象の農民を
土地に縛り付けておくため
住居の移転を容易には認めませんでした。
要するに「青森」で生まれ育った一般民が
一生、鹿児島出身者と話す機会は無かった
ということです。

何かの本で読んだ気がするのですが
明治維新後、上京してきた
「青森県出身」の男と
「鹿児島県出身」の男との間で
まったく会話が成立しなかったそうな。
方言とはいえ、双方とも同じ「日本語」で
会話しているつもりだったのに。

徳川家康(三河→関東)が、
結果的に徳川に逆らうことになった
島津家(鹿児島)を
成敗(取り潰し)しなかった理由。
それは
「あいつら何言ってんのか良く解からんし」
というのが最大の理由だったのでは?
と書いている本があった。
笑える。
結構真実だったかも。

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2007年01月07日

熊谷信直の娘

実は「戦国」部門も存在した当ブログ、
マスライの主幹PONであります。

だれ?「熊谷信直」って。
何?「娘」って。

ご紹介しましょう。
戦国時代(1570年代〜)、中国地方は
大戦国大名「毛利」氏が制覇しておりました。
「毛利」といえば「3本の矢」のお話が有名ですな。
一代で、小豪族から中国地方8ヶ国まで
領土を広げた、毛利元就(もうりもとなり)は
自分の死が近づいてきていることを感じてか、
ある日自分の息子兄弟3人に説教しました。

「「矢」は一本ではこのように折れてしまうが
 三本まとめれば、そうそう折れるものではない。
 君らは兄弟仲良く、家を守り立ててくれたまい!」

母親が我が子を、兄が弟を、
叔父が甥を(しかも一族ごと)殺しあうことも
ありえた時代の当時、この説教はなかなかの
もんだと普通に思います。

ぶっちゃげた話、元就は自分の一族に
こんなことまで言ってます。(かなり意訳)

「自分だからここまで毛利家を大きくできた。
 自分の死後、毛利家の人間は絶対に「天下」を
 狙う欲を持ってはいけない!
この8ヶ国だけを
 守り抜くようにだけ努めれば
 まあ、食いっぱぐれはないよ」

凄いですね。自分以外は全員「ボンクラ」よばわり。
ただ、結果的には悲しいことに
見事に未来を見通した遺言だったわけですが。

三本の矢の兄弟の一人に
「吉川元春(きっかわもとはる)」
という武将がいます。
苗字が違うのは、長男が「毛利家」
次男の彼は中国地方の有力豪族「吉川家」を
継いだからであります。

その元春は中国地方で当時、勇将として
知られた「熊谷信直」の娘を
嫁にもらうことになったのです。
この娘と言うのがですね、
まあいわゆる「不美人」でこれまた

中国地方ではかなり有名だったらしく。

そんな「娘」を嫁にもらってくれた
元春に「熊谷信直」は大感激。

命の限り彼に尽くしまして
常に戦場で大活躍だったそうです。

子供を4男2女も作ったとか(妾とか無しで)
最初は、勇猛な武将を味方にしたいという
政略結婚だったのかもしれませんが
最後は相思相愛だったのでしょう。
そうでなければ6人も作れないよな。

いや〜。このお話が結構好きでしてね。
ゲーム「信長の野望」なんかで
「熊谷信直」を捕縛すると
必ず部下にしちゃいますよ。

げに凄きは親の愛。

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2006年11月20日

九鬼水軍

11/20追記。
緊急(あくまで自分にとって)速報。
訃報。漫画家「石川賢」さんが
亡くなったようです・・。

最後まで読み終えた漫画は
ほとんどありませんでしたが
かれの作品全部に共通する
その「イキオイ」「ハッタリ」の凄さは
まさに「ゲッターパワー」でした。
ご冥福をお祈りします。

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戦国時代にも「海軍」はありまして
当時は「水軍(すいぐん)」と呼んでました。

大砲も魚雷もない時代のことですから
せいぜい鉄砲で打ち合い、
火のついた弓矢で攻撃の後
敵船へ自船を強引に横付け、
あとは殴りこみ・・といった戦いがメイン。

荒くれ者が船に乗っているイメージですが
海には独特な戦い方があるわけで
海上戦闘とは立派な技術職。
如何に陸上では屈強を誇る「武士」とは言え
海では水軍には敵わなかったようです。

「ここらの海は昔から俺の海なんだYO!
 ニイちゃん!誰の許可を受けて
 こんな所を走っているんかいのう??」

(多分にイメージです)

もともとは「海賊」で、中央集権の目が
なかなか届きにくいことをいい事に
通りかかる商船から「海上保安料」
まあ要するに海のみかじめ料
交通料(税)の私的巻き上げを
仕事としてきました。

歴代の陸上の政権も
彼らの取り扱いには
いつも苦労
していたようですが、
戦争のため、どうしても海が関係してくる場合
仕方なく雇用契約を結んで
味方になってもらっていたようです。

「九鬼(くき)水軍」とは三重県の志摩半島を
拠点とする海賊グループ。
「織田信長」は瀬戸内海をナワバリとする
毛利水軍、村上水軍と喧嘩する上で
どうしても自前の「水軍」が必要でした。
そこで手を組んだのが「九鬼水軍」

下の写真は雑誌に載っていた
「九鬼水軍」の旗印だそうです。

あろは.JPG
「学研 歴史群像7月号より」

でもこれって・・

「あろは」

だよなあ。
そんな水軍が味方だとちょっと嫌かも。
(なにげに外国語だし)

「あら波」=荒波、のくずし字なのでしょうが。
カワイイな。九鬼水軍。

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2006年11月12日

大野道犬

「MS」カテゴリは結構充実してきた
マスライですが
なかなか「戦国」が埋まらない。
本気で書き出すと疲れるし
やっぱり素人なんで
どこに突っ込み食らうか怖いし・・
とヘタレぶりを披露したところで

大野・道犬斎・治胤(はるたね)

戦国ものの小説、
特に大阪冬の陣・夏の陣という
戦国時代の終焉を書いている
作品を読むと、大阪方(豊臣家)として
唐突に出てくる武将。

なんでいきなり彼なのか?と
お答えするならば・・
当然PONは好きではありません。
というか、縁戚の方や地元の方以外に
ファンっているのでしょうか?
ともかく、彼が話題に上った理由は二点。

・名前に「犬」がついている
・悪役にふさわしいヘタレぶりと
 どうしようもない変な活躍のみ


名前に「犬」がついていたのは
実名じゃなくて「号」なんですね。

「号」・・号とは本来、自分で考えるもの
 というよりも、友人知人の、自分に対する呼び
 方からうまれる。顔つき、声の色、総体の風貌
 などをたがいに知っている小人数のあいだに
 自然にうまれてきたイメージや評価を元に、
 それにいささかのユウモアと衒学趣味、
 アイロニーなどを加えてドレスアップしたものが
 号になる
 (高野澄「名前読本」
 月刊『淡交』第49巻第6号 淡交社より)

ま、要するにあだ名みたいなものですな。
それにしても「大野道斎」
「犬」ですよ「犬」
仲間内に「野犬」扱い
される人間ってどんな奴??(苦笑)

「犬」って人の名前には用いませんね。
これだけ人類最古の友であるのに
「脳みそが足りない」
「なんでも言いなり」
「浅ましい」

そんなイメージが「犬」には
あるからなのかも知れません。

徳川方から見ても「敵役」として最適。
ただし「最終ボス」ではなくて
RPGでいえばシナリオ1の簡単なボスクラス。

どこからか湧いたような出自のはっきりしない
ほかの多くの戦国武将と比べても
道犬の出自は一応はっきりしてまして
お兄さんの「大野治長」は「淀殿」
(秀吉の愛人。世継の「秀頼」を生んだ)
乳兄弟の間柄で幼少の頃から近待していたらしく
その縁で、歴史に出てきたらしいです。

乳兄弟(ちきょうだい)・・乳母の 子供のことで
 幼少時から一緒にいることから、そのまま成人しても
 仕える者が大方。乳母とは実母に代って子に
 乳をのませ養育する女のこと。
 つまり、道犬は淀君と同じ「母乳」で
 育った
わけだ。

んで、彼がどれだけヘタレだったかといえば

・冬の陣に先立ち八尾を放火
・豊臣家の水軍を率いて船倉を守備するが、
 天候不良に油断
 野田・福島の戦いで徳川水軍に大敗。
 自水軍を壊滅させ、ついたあだ名が
 「橙武者(見かけだおしの役立だずという意味)」。
・夏の陣では紀伊(和歌山)出兵の際には
 堺に駐留して市街を焼き討ち。
 2万軒の建物を壊して焦土
とした。

当時の大坂「堺」は堀に囲まれた
自治区のような街で
日本の経済、科学技術、一部文化の中心
でさえありました。
そこ焼いてどうすんだっての。
以後「堺」の街は元には戻りませんでした。

「道犬」なにやってんのッ!!
ブライトさんに怒鳴られそうな野郎だ。
さすが「野犬」

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結局・・
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2006年11月11日

山内一豊 その弐

人の功績を横取りする男
山内一豊について
もう一回だけ書きます。

「小山評定での掛川城献上」

関が原の戦いの少し前、
「徳川家康」は自分を嫌う
「石田三成」とその仲間たちと戦争をして
一気にケリをつけたがっていました。
しかし自分が京都にいては
「三成」も挙兵しません。

仕方なく家康は「会津」の「上杉景勝」に
無理やり因縁をつけ、京都から部下や
豊臣秀吉の旧部下達を引き連れ、
東海道を通って「会津」へ戦争しに行きました。
その留守を待って、従来より計画を練っていた
「石田三成」は家康を倒すために挙兵します。

更にこれを待っていた家康は
栃木の「小山(ゆうえんち)」で会議。
上杉と喧嘩するのは
ひとまずお休み
石田三成と戦争をすべく
京都へ戻ろうとします。

この時点での家康は、
晩年の圧倒的権力者ではなくて
会社で言えば豊臣家の専務どまり。
部下のように付いてきていた
豊臣秀吉の旧部下達も、家康の部下でなくて
あくまで同僚
だったのです。

東海道を戻るのはいいとしても
その通り道にあるたくさんの「お城」は
部下のものではなく、同僚のもの。
一人でも「家康」ではなくて
「三成=豊臣家」に味方する!となれば
安心して京都に戻ることは出来ません。

そんな時、一豊は
家康の前に進み出てこう言ったのです。

「家康殿が石田を討つために東海道を進まれるはず。
 自分の城・掛川城にはたくさんの兵糧が
 ありますので自由に使って欲しい。
 それだけでなく、掛川城と知行地一切を
 家康殿にお預けします


一見、当たり前のように聞こえますが
これは画期的なことで、家康にとっては
願ってもないことでした。
まあ、専務が社長を裏切って独立する時
同僚の専務が資金と人脈その他

提供したようなモンです。

家康はこの言葉に感動し、目を潤ませたとか。
一豊の一言で東海道に城を持つ他の武将も
俺も俺もと城の明け渡しを申し出、
家康は労せずして
東海道の諸城を手に入れました。
一豊が関が原の戦いで
戦功がなかったにもかかわらず、
土佐一国を手に入れたのは結局このため。

但し、この申し出は
最初に言い出した人間のみが有効です。
あとから真似して「自分も!」といっても
追従者として埋もれてしまうだけです。

これを、一豊が自分で考え出して
申し出たのならば、
それは機を見るに敏の政治力を持った
大した武将だと思います。

実は、この案を考えていた
別の人物がいました

小山会議を前に途方にくれていた一豊に対して
「堀尾忠氏」という若い武将が
自慢げにポロッと漏らしてしまった
腹案(城をそのまま明け渡す案)
を一豊はそのままパクったのだ

伝えられています。

誰が考えたかは問題ではなく
偉いのは実際に言いだした者
(実行者)
であるのは
世の常なのですがね〜。

奴には本当に納得いかない。

・・そんなわけで
大河ドラマ
当人の人生がごとく、
まったく見せ場を作れない
「山内一豊」なんか止めて
さっさと「北条五代」やってください。
要はそういうことです(苦笑)

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2006年11月09日

山内一豊 その壱

PONはこいつが嫌いで。
「山内一豊」は
有名な「嫁さんのへそくり」
「人のアイデア横取り」だけで
土佐24万石の太守になってしまった
本当にどうでもいい奴。

大河ドラマでは
NHKが何を勘違いしたか
山内一豊夫妻が一応主役の
「巧妙が辻」
をやってました。
ドラマ化された理由は「司馬遼太郎原作」という
その一点だけのためでしょう。

あの夫婦に限り、ドラマで
特別に描くところがないもの。
「本能寺の変」・・それは信長の話じゃん。
「山崎の合戦」・・それは秀吉じゃん
「関が原の戦い」・・それは家康だ。
山内一豊とはまったく関係ないところで
ダイナミックにうごめく歴史の奔流に
無理矢理、山内一豊を絡ませようと
苦戦する脚本家の姿が浮かぶ。

ところでコーエーのSLG、
信長の野望シリーズでは
自国領が拡大して前線が遠くへ行くと
後方の安全地帯って奴が出来ます。
ここにいる人間は
・余計なことはせず
・必要に駆られたとき
 前線に物資(金・米・兵士)を
 送ることが出来る

存在であればよいので
結局、3流武将が後方の安全なお城で
お留守番することになります。

全体として一国が抱える武将数は限られますし、
急成長した国ほど、人手は欲しいのですが
どうせ誰も攻めてこないのだからといって
お城に誰も配置しないと(空城)
時々ランダムに「浪人」が乗っ取って
独立してしまう場合があるのです。
取り戻すのは簡単だけど
面倒くさい!
ため、置かない訳にはいかないのです。

史実の徳川家康にとって
土佐は別にどうでもよかったのでしょう。
山内一豊を土佐24万石の太守としました。
(格別に物流の交差点でもなければ
 戦略上の要点でもない・・が、
 本当は「海」と「航路」に目を向けた場合
 土佐は非常に重要な土地なのだが
、残念ながら
 家康は「農民的発想」しか出来ない武将だった)

最低限、裏切らなければ良い。
だから律儀な奴を
太守にしたんだろうなあ。

PONはなんでこれほどまでに
「山内一豊」が嫌いなんでしょう?
別に何かされたわけでもないのに(苦笑)

彼の「人のアイデア横取り」については
後一回続きます。

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2005年06月14日

蜂須賀小六

中学の頃、ある先生に
「PON君は野武士みたいだ」といわれた事がある。

「出自もエリートではなく、普段はめちゃくちゃだが
一丁ことあらば武士のような働きをする男」

というような意味だと、その先生からは
フォロー?があったと記憶する。
ニュアンス的には昔だったら
「西本聖」選手とか「鈴木啓示」選手
今なら「上原」選手。
いわゆる「雑草魂」
自分を持ち上げすぎですか(笑)

のぶし 1 [野武士]
「中世,武装して略奪などを行なった男の集団.野ぶせり.」
三省堂Webディクショナリーより
・・先生、貴方の教え子は武装略奪集団ですか?

「野武士」といえば
「蜂須賀小六」(はちすかころく)
彼は豊臣秀吉の創業を助けた功臣。
秀吉の身代が大きくなればなるほど彼自身は
「One Of Them」になってしまったが
それでも子孫は四国・阿波(今のだいたい徳島)を
領地としてもらい、明治時代まで「名前」と「血」と「領地」
を残した稀有な家
です。

これは多分コーエー系の書籍で読んだ記憶があるもの。
彼の子孫は明治時代に「貴族院」の議長だか
なんだかを勤め、「明治天皇」と直に謁見する
機会もあったらしい。ある日「明治天皇」に
呼ばれた「蜂須賀」議長は天皇の執務室で
待機中、テーブルの上に
菊の御紋入り極上「葉巻」
置いてあるのを見つける。つい出来心で
一本失敬、何食わぬ顔で天皇を待ち続けたところ、
執務室に現れた天皇はすぐに気がついて
「蜂須賀。血は争えんな」
からかったそうで。

「血」というのは当時「蜂須賀」家の
初代「蜂須賀小六」は
盗賊の首領から名を上げた」
という事になっており、
「失敬」してしまったことはまあ仕方ないとしても(笑)
未だ「盗賊」扱いされることだけは
どうにも耐え切れなかった
らしい。
「蜂須賀」議長はかなりの金額を投入して
当時の最高級の歴史学者に「蜂須賀家の出自調査」を依頼。
その結果、見事に蜂須賀家は
「盗賊」ではなく「野武士」の出自である事を
証明したそうな。

やっている事がとっても「野武士」っぽい。
いわゆるエリート武士なら
最初から葉巻をとる事すらしないでしょうし。

それと明治の頃はまだ天皇と臣下の間が近かったんだな。
(あるいは今上天皇の人間くさいエピソードが我々レベルまで
 漏れ伝わってくるのは今から100年後のことなのかも)

うーん。まあそれにしてもこのエピソード。
PONが結構好きだっつーだけの事なんですがね。

こんな記事も・・
posted by PON at 20:43| ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月14日

小泉政権について考える

この間「竹中半兵衛」軍師を話題にしましたが
思えば小泉氏が竹中大臣を重用している
最大の理由は名前が「竹中」だからでは
あるまいか。
あの人も結構、戦国・歴史マニアのようだし。
自分を戦国武将になぞらえて。
すると、全国の「黒田」さん
権力の中枢に潜り込むチャンスです。

・・はっ。サーヤのフィアンセは確かw

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posted by PON at 00:49| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月10日

竹中半兵衛

ブログ始めて早1.5ヶ月
ようやく出ますよ戦国ネタ

先に予防線を張って置きますが、
PONは「古文書」が読めるわけではありませんので
主なニュースソースは
・戦国シミュレーションの雄、コーエーが発行している
 SLGゲーム攻略本各種
「学研・戦国群像シリーズ」
隆慶一郎先生他、司馬遼太郎、池波正太郎の文庫
PHP文庫歴史人物シリーズ
というような、いたって可愛いものです。
特に「シブサワ コウ※1」監修の攻略本(覇王伝事典とか!)は
学生時代に読み倒しました。今でも大好きです。

※1.シブサワコウ氏とはコーエーの歴代歴史ゲームを監督する
   永らく正体不明の人物でしたが、大方の予想通り
   やっぱりコーエーの創業者であることが判明。

もちろん学者でもございませんので
今後、年代などをはじめとする細かい間違いが
出てくるでしょうが、まああまり気にしないでください。
そういう時は自分で調べることを促すことで 
読者の自主性をはぐくむワケです。本当です。

・・で「竹中は反米」←IMEが勝手に変換しました。
もとい、「竹中半兵衛」殿。
草履取りから破竹の大出世を遂げた、豊臣秀吉
立身から前半分を支えたといわれる、半ば神格化した軍師です。
(後半戦を支えたのはもちろん「黒田官兵衛」

彼のエピソードは有名なのでたくさんありますが、
私が竹中氏から学んで、結構実社会で役に立っていることを
今日はひとつだけ。

ある軍と対峙していた秀吉軍にて
軍師として半兵衛は見回りをしていました。
この頃の「いくさ」は陣形が大変重要でしたが、
ある武将の部隊だけ妙に形がいびつで
全軍の弱点になってしまいそうなことに
瞬時に気がつきました。
戦国武将なんて皆ジャイアンです。
一部を除き、基本的に「自分は部下」と言うよりは
「協力してやっている」という気持ちでいっぱいの方々がほとんど。

およそ鎧姿が似合わない、ヤサオトコ系の半兵衛氏は
つーっと馬で、その武将の指揮する部隊前を通り過ぎ、
しばらくして、また戻ってきてから静かに言ったそうです。

「ただ今、全軍を見て参りましたが、やはり羽柴軍で一番
 お見事な統率は貴殿の部隊です。さすがでございますな。」

「・・こことここの武者達をこちらに移せば
 更に見栄えが良くなるかと存じますが
 まあそこまでしなくても良いでしょう。では。」

この武者さん、スグに部隊の陣形を直したのは
言うまでもありません。
半兵衛氏に乗せられていることに半分は気づきながらも。

「一流の軍師とはまず一流の心理学者でなければならない」
良い例だと感じました。
悪い言い方をするなら「人たらしの天才」

更には「褒めるときは人前で、叱るときは2人きりで」とか、
人間なんてモノ言い方ひとつで、
いくらでも好意、憎悪の分が変わってしまうんですよね。
怖いですが、事実です。
このテクニックは後輩にモノを教える場面でたまーに使用します。

いえね。最近、
「職場でスグに反感をかってしまう上司」について
改めて考える機会があったもので。
(ウチの職場ではありませんよ?)
説教くさくなってしまいました。

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posted by PON at 20:55| ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | 戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする